何者かになるという一発逆転
二十代半ばまでの自分は、強く「何者かになりたい」と願っていた。
名を馳せ、評価され、認められる存在になりたかった。
だけど現実の自分は、何をやっても中途半端で、突出した才能もなかった。
YouTuberとして成功し、名声と財を手に入れている人たち。
音楽で独自の世界観を表現し、人の心を動かしている人たち。
そういった“何者か”になった人を見るたびに、自分には何もないと感じていた。
「何者かになれば、今の自分でも肯定される」
そんな思いに取り憑かれていた。
その根っこにあったのは、ただただ強い承認欲求だったと思う。
でも、若くして何者かになっている人たちは、
生まれたときから何かしらの使命を背負い、
誰にも見えないところで努力を積み重ねてきた人たちだ。
一方の自分はといえば、どこまでも受け身で、
「いつかすごい人になれたらいいな」と、なんとなく願っていただけだった。
限界を超えて努力することもなく、夢だけを見ていた。
最近になって、そんな何者でもない自分を
少しずつ肯定できるようになってきた。
きっかけは、「これは自分だけの人生じゃない」と思えるようになったこと。
自分だけがどうにかなればいい世界じゃない。
家族が、友人が、大切な人たちが、これからも穏やかに暮らしていけることのほうが、
ずっと大切なんじゃないかと、ふと気づいたのだ。
自分が歳を重ねたこともあると思うけれど、
最近は、目の前の仕事に真摯に向き合い、責任ある立場で日々を積み重ねている人のほうが、
若くして注目を集めているユーチューバーたちよりも、よっぽどかっこよく見えるようになった。
地に足をつけて、日々誰かの役に立ち続ける姿のほうに、今は憧れを感じている。
新卒から同じ会社で長く働き、着実に結果を残し、役割を得ている友人の話を聞くと、
「あれこそが自分が目指すべき場所だったのではないか」とさえ思う。
理想ばかりを追い求め、その時いる環境を踏み台にしてきた生き方は、
少なくとも“持たざる者”である自分には厳しい生き方だった。
夢を追い求める資格は、それまでに努力を積み上げてきた人間にのみ与えられる特権だ。
もちろん、持たざる者が夢を追うことを誰も否定はしない。
ただ、この世界は残酷で、手遅れになるまで「なんとなく生きていけてしまう」。
それは、まるで癌や糖尿病のように、静かに進行し、気づけば逃れられなくなっている。
劇的な一発逆転なんてなくてもいい。
何者かにならなくても、ちゃんと生きていける。
そんな風に、今の自分を受け入れながら歩いていけたらと思っている。
そして思う。
“持たざる者”にとっては、いかに早くそれに気づけるかが、人生の幸福度を大きく左右するのではないかと。
ただ一方で、自分の生活や人生を犠牲にしてでも、まだ花が開いていないと感じている人には、
どうかギリギリまで挑み続けてほしいとも思う。
自分は、自分の生活や人生を犠牲にしてまで何かに取り組むことができなかった。
だからこそ、そうやって最後まで挑み続ける人を、心から尊敬している。








